温泉、宿、グルメ、観光スポット…日本を、世界を駆けめぐるフリーランスライター 7人が日本の旅をバッサリ鑑定!


今月のお題
12月  忘れられないクリスマス
イルミネーションがきらめき、街中が華やかに彩られる12月。今月のお題は、ライターズ7らしいクリスマスの思い出をご紹介します。

★昭和最後のクリスマス

 
忘れられないクリスマスプレゼント 〜by Miyako Honda〜
 ある年のクリスマスシーズン。村上春樹の「ノルウェイの森」が一大旋風を起こしていた。とはいえ、当時から池波正太郎やら永井路子、司馬遼太郎が好きだった私は、書店で輝く、その赤と緑の上下巻の表紙は手にとってみる気も起こらなかった。
 が、クリスマスの夜、その上下巻をプレゼントされた。くれた相手はすでに読み終えていて、えらく興奮していて早く読んでほしいと言う。せっかくのいただきものだしと、帰りの電車の中で、さっそくページをめくってみた。
 飛行機の着陸前にビートルズの「ノルウェイの森」がかかっていた、というイントロダクションからはじまるのだが、私は2行目にして白けてしまった。
 まったくなんといっていいか、こういう小説は苦手なのだ。けれどもプレゼントしてもらった手前、なんとか読み進めた。いつもなら小説1冊を1日か2日で読んでしまうのだが、どうにも乗らず、年を越してしまった。
 年明け早々、その日はプレゼント相手と食事をする約束で、なんとしても帰りの電車の中で最後まで読もうと必死だった。車内でようやく最後のページをめくり終え、ほっとした瞬間、人身事故で電車がストップ。郊外へ向かう地下鉄のどの線とも接続していない駅で降ろされる羽目になった。当時はバブルの真っ盛り、タクシーはつかまらない。歩きとバスで1時間以上遅れて目的地に着いた。待っていた相手が怒っていたのはもちろんのこと。思えば携帯電話もポケベルも持っていなかったんだ、あの頃は。
 読書と気まずい食事ですっかり疲れた私は、翌朝、少し寝坊した。まずはテレビのスイッチを入れる。
 すると、昭和が終わったというニュースが押し寄せてきた。昨日のいくつもの苛立ちが、この出来への布石だったように思えた。 
 昭和最後のクリスマスは、「ノルウェイの森」のおかげで忘れ得ぬものになった。物語の中で唯一気になったのは、サナトリウムがあるという京都の風景。どうやら鞍馬を抜け花脊峠の先にその建物はあるように描かれていた。残念ながらその先にそんな風景がないことを知っていて、妙に興ざめしたのだが、今思い返すと一番に印象に残っている。小説は命の終焉と心の再生なんてテーマだったんじゃないだろうか。それが昭和の終焉と平成の幕開けに奇妙にマッチしていたような気がする。今から思うと、あんなにタイムリーなクリスマスプレゼントはなかったのではないだろうか。

★ちょっと苦手なクリスマス

 
クリスマスケーキを知らない私 〜by Shinobu Kobayashi〜
 大日本帝国思想の家風だったわが家には、子供のころからクリスマスという行事は存在しなかった。クリスマスはキリスト教信徒のための日であり、外国のイベント。大日本帝国小林家にあるのは、正月と四季折々の節分の行事であり、12月になると(今では11月からだが)、街やテレビから聞こえてくるジングルベルの音楽を疎ましく思っていた父は、いつも不機嫌になるのだった。
 友人の家ではクリスマスツリーやケーキがあるのに、家にはない。それはとても寂しかったが、子供心に父の性格を理解していた(つもりの)私たち姉弟は、文句を言うこともなく、やがて来る正月に楽しみを取っておいた。
 ずっとそんなふうにクリスマスを過ごしていたので、年頃になり、ボーイフレンドからクリスマスデートに誘われ、それがとんでもなく高級なレストランを予約したなんてことを言われても、喜ぶどころか、「なんで混んでる時に、しかもいつもより高い料金払って食べなきゃいけないのよ、断れば」と、いつもの居酒屋でコップ酒を飲んでいることが多かった。(ただし、プレゼントだけはいくつでもしっかり頂戴しましたが)。それは今でも同じ。クリスマスになんのときめきも感じない。
 仕事をしてからは、付き合いで何度かクリスマスパーティーなるものに出席した。とはいっても、結局はプレゼント交換が付いた飲み会で、面倒くさかった。が、一度だけ、友人たちと思い出に残るクリスマスパーティーをしたことがある。それはジョン・レノンが凶弾に倒れた1980年12月のクリスマス。イブの24日に高輪プリンスホテルのスイートルームを借り切って、ジョンとヨーコの“Happy Christmas (War is Over)”を朝までリピートしてかけ、飲みまくった。 私は特別なジョン・レノンファンではないが、ちょうどこの年の夏、ニューヨークに行っていた。セントラルパークのあの場所で、ジョンが撃たれた…ショックは大きかった。
 おととし、去年と連続してクリスマスは札幌で過ごしている。今年もたぶん札幌にいる。テレビ塔の上から眺める大通り公園のイルミネーションはきれいだ。ましてや札幌には雪がある。青色発光ダイオードが登場してからは、ますます神秘的な美しさを増したように思う。でも、やっぱり私にとって、クリスマスはなんら特別な日ではない。クリスマスデコレーションがはずされ、代わりに門松が立ち始めると、私の心はうきうきと弾んでくるのである。

 

 

 
名湯で過ごしたイブ 〜by Yasuhisa Ueda〜
 旅行記事を書く仕事というのはなんだかうらやましがられることが多いけれ
ど、実のところその場所の一番いい時期に出会うことってほとんどない。紅葉が美しい日光の取材は真夏の炎天下だし、弘前の桜の取材は1月に雪を踏みしめていくことになる。クリスマスのようなピンポイントのイベントなど、写真を借りて作るしかないから、実際にその風景を取材する機会はない(もっとも、僕の場合は基本的におしゃれな町や贅沢なスポットはもともと不得意なわけで、首都圏50km以内の取材なんかほとんどなかったりする)。
 だいたい、クリスマスの頃というのは、出版業界ではたいてい年末進行ぎりぎりのタイミング。取材よりもとにかく年内に原稿を入れなきゃいけなくて徹夜続き。編集やデザイナーには「せめてイブは休ませてくれ」と言われるのをなだめつつ、あやまりつつ、24日の明け方に原稿を送ってそのまま爆睡してしまうことも多い。
 数少ない経験が山梨県下部温泉で過ごした夜のこと。ドライブ取材のために走り回って宿に着いて、やっと足を伸ばしたところで、ひとりだといきなりすることがなくなってしまう。TVをつけてみて、初めて今日がクリスマスイブだったことに気付く。なんか脱力してTVを消すと、聞こえてくるのは遠くの宴会場での忘年会騒ぎだけ。あまりにさびしいのでロビーでヒマそうにしていたら、宿のご主人が飲みに誘ってくれた。実にありがたかったのだけど、まさか地元のおじさんたちに囲まれて、武田信玄と下部ゆかりの武将、穴山梅雪についてのレクチャーを延々と受けることになるとは思わなかった。発端は僕がうっかり穴山梅雪を武田氏の裏切り者呼ばわりしたからなんだけど。
 えーと何の話だっけ。いざ書いてみて、やっぱり僕は根本的にイブとは縁がないってことなのだった。

 

★涙で綴るクリスマス

 
涙でにじむイルミネーション 〜by Kimiko Nakabayashi〜

 それは1994年のこと。11月に長男が生まれ、初のクリスマスは幸せの絶頂のはずだった。それなのに、クリスマスイブはファミレスの片隅で涙涙…、陽気なクリスマスソング、華やかなイルミネーション、周囲の家族連れやカップルの幸せな笑顔もみーんな涙を誘う材料にしかならなかったあの夜。それが私の生涯忘れられない悲しいクリスマスだ。
 産前産後を実家でぬくぬくと過ごし、自宅アパートに戻ったのが12月中旬。その頃からなぜかコンコンと咳が止まらない長男。熱はないし、病院でかえって病気をもらっても…とちょっと様子を見ていたものの、やはり心配になって病院に連れて行ったのが22日。そこで小児科の先生に「お母さん、なんでもっと早く連れてこないの!熱がなくても百日咳って怖い病気があって、1ヶ月の子どもなら命にかかわるんですよ!」「ミルクを飲まなくなったら、迷わず救急車を呼びなさい!」とかなりの勢いで叱られ新米ママは奈落の底へ。ミルクを飲まなくなったらって言われても、長男はミルク嫌いで哺乳瓶を受け付けず、おっぱいオンリー。おっぱいには目盛りがないから、どんだけ飲んだかわかりゃしない…などと言えるはずもなく、トボトボ帰ってきた。その後も激しく咳き込むことはないけれど、コンコンと小さな咳は続く。
 そして24日夜、ダンナはクリスマスイブというのに会社の忘年会だからとシャワーを浴びてソワソワと出かける準備中だった。でも、長男は昼間より苦しそう。小児科の先生の言葉が頭をよぎり、救急病院に電話すると「すぐ連れてきて!」という返事。まだ忘年会へ未練タラタラだったダンナを半泣きになりつつ説得して病院へ飛びこんだ。すると非常にも「即、入院」。そのまま小さな身体に点滴をつけられ酸素テントの中へ。しかも、完全看護だからご両親は「お帰りください」。あまりの出来事に頭の中は「なんで」「どうして」がぐるぐる。早くも母親失格のレッテルを張られ、今の不安、将来への不安もぐるぐる。そうして、夕食もまだだった新米パパママは、とりあえずファミレスに入ったものの周囲のクリスマスムードにさらに悲しみを増幅されてしまったのだった。その後の経過は順調で、お正月前には退院。新米ママには厳しい洗礼だったけれど、健康のありがたさ、子育ての責任を強烈に実感させられた忘れられないクリスマスだった。(写真は今年の13歳の誕生日)

 

 
1983年12月24日 〜by Yuka Mizunashi〜
 「Yuka、今日はターキーを焼くから、地下の冷蔵庫に取りにいくわよ」。忘れもしない1983年12月24日、朝8時のことだ。私は、ペンシルバニア州ランカスターの片田舎にある小さな牧場主の家にいた。アメリカでもっとも古い街のひとつ、フィラデルフィアから西へおよそ100キロ。周囲にはなだらかな丘が幾重にも続き、北海道のような風景が広がる。しかし雪は大して積もらず、10センチほどの雪の下に氷が張っているような、まるで1月か2月の盛岡郊外とでも思ってもらえばぴったりの、空気がキンと冷える寒い土地だった。
 時間は正確に覚えている。朝6時にラジオから流れる説教を聞き(テレビは置いていない)、7時にはトーストにドライフルーツのサラダ、そしてグラス1杯の水の朝食を前にして祈りを捧げていた。ご主人はすでに亡くなり、母親と、養子にして面倒をみている精神障害をもつ息子、そして私の3人は、それはそれは静かな朝を迎えていた。私はクリスチャンではないが、こちらのファミリーのご好意で、異郷の地でのクリスマス休暇を過ごしていたのだ。
 「皆が集まるから、なるべく大きいのにしましょう」と冷蔵庫から取り出したターキー2羽。それらが電気オーブンにおさまるまで、あまりの手際の良さに随分感動したが、「じっくり7、8時間くらい焼くのよ」の声に、ディナーは夜の8時頃だと悟った。
 午後は、テーブルセッティングであっという間に過ぎた。普段は使わない奥のダイニングルームの中央に設えられた重厚な木製のテーブルは、家具職人をしている長男が作ったものだという。たしか18人分のセッティングをした。準備は万端。前日に町へ出た際にこっそり買ったプレゼントは手元にある。マザーは暖炉の前で刺繍をしている。それが彼女の午後の日課だった。私は、牛舎で出産を控えた牝牛をずっと見ていた。だが、診察に来た獣医師の話では、この日は生まれそうになかった。
 夕方6時。「食事にしましょう」の声に、私は戸惑った。集まるはずの“皆”がいない。長男ファミリーには孫が4人といると聞いていた。大学の寮で暮らす娘も戻るはずだ。しかし、いつもの質素なダイニングテーブルを囲んで、3人の祈りが始まった。私は思った。「イブだから、ディナーは夜だ。これはその前の軽食なのだ」と。そして、食後のお茶を飲みながら聞いた。「皆さんはいつ来るのですか」。「明日よ」。「今日のイブは?」「何もしませんよ。イブだから」。「えっ?」。「私たちメノナイトはイブを祝いません。大事なのは25日だから」。
 勝手に浮かれていた自分を恥じた。そして、日本でも礼拝堂がある大学に在籍していたにもかかわらず、宗教学の講義を軽んじていたことを後悔した。アメリカ史に興味を持っていたのに、ここがダッチ・カントリーと呼ばれる地域で、多くの住民がプレーンな生活を信条としていることに気づいていなかった。
 25日、クリスマス・デイ。ファミリーが集まり、それはそれは賑やかなランチとなった。「母が焼いたのがいちばん旨い」と長男が大喜びのターキーは、じつにおいしかった。以来、まるごとのターキーを目にすると、そして、メノナイトと教義を同じくし戒律が厳しいアーミッシュの生活が描かれたハリソン・フォードとケリー・マクギリス主演の映画『刑事ジョン・ブック 目撃者』を観ると、自分の無知を痛感した、あの1983年12月24日を思い出す。

 

 
心に灯りをともすクリスマスツリー 〜Kakuko Tomiyama〜
 その昔、クリスマスというと年内最後の入稿に追われ、毎年のようにイブは編集部にカン詰め状態。今のようにパソコンで原稿を書いたり、入稿することができなかったから筆圧の高い私は常にペンだこに悩まされていたし、入稿のたびにあちこちに点在している編集部をまわるのも大変だった。そして、なぜかクリスマスに限って、仕事上のトラブルや突発的なできごとに巻き込まれ、涙をこらえながら夜中に帰宅することが多かった。この日も理不尽なクレームをつけられ、帰宅の途についたのは夜遅く。ケーキ屋さんも店じまいし、すれ違う人々はほとんど酔っぱらい状態。昼から何も口にしていなかったが、食欲なんてまったくわかなかった。その日の私は、彼氏にすっぽかされたかわいそうな失恋女にしか見えなかったかもしれない。
 重い足取りでマンションの入り口に向かいふと見上げると、真っ白に曇った窓の向こうにちかちかと瞬く灯りが目に映った。あまりのショックで目までおかしくなったか、とため息をつき、家の扉を開けると、テーブルには赤と緑のペーパークロスが敷かれ、その上に小さなクリスマスツリーとワイングラスが。そして部屋中にたちこもったミルクのような甘い香り。
「シチューを作ってみたけど、帰りが遅いからじゃがいもが溶けちゃったよ」と信じられない夫の言葉。生まれてこのかた、料理なんてしたことがない夫が、ホワイトシチューを作ってくれていたのだ。今か今かと帰りを待ちわび、その都度シチューを温め直していたため、じゃがいもはおろかタマネギまですっかり溶けて、白濁した液体と同化してしまったシチュー。これとフランスパン、そして安いワインのクリスマスディナーだったが、私にとっては世界一おいしいごちそうだった。口に運ぶたびになぜか涙があふれてきて「シチューの素はハウス食品でよかったかなあ。底の方がこげちゃったね」と明るく話しかける夫の言葉が心にしみた。

 このことがあって以来、我が家では毎年クリスマスツリーを窓辺に飾るのが習慣になった。つらい事、悲しいことを抱えながら家に向かう人たちの目印になりますように。この小さな灯りが彼女たちの心を癒してくれますように。そんな願いをこめて、飾るクリスマスツリー。年を重ねるごとに灯りの数も増えていき、あの時の小さなツリーは年齢にふさわしいたくましいツリーとなった。

 

 

編集後記

 心ときめくクリスマス、彼とラブラブクリスマス、というロマンチックな原稿がなかったのは、まさにライターズ7ならでは。居酒屋で、自宅で、そして取材先でそれぞれの思いを抱えながら迎えるクリスマス。みなさんにとって素敵なクリスマスでありますように。

12月の編集長/ Kakuko Tomiyama

 

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